05.声が出ない。嬉しすぎて








「羽柴」
いきなり名前を呼ばれて、すごく驚いた。
水都は俺の名前を呼んだ後に椅子をくるりと回し、今まで向かっていた自身の机に背を向ける。

俺がいるのは数学教諭室。目の前にいるのは兄ちゃんではなくて水都だ。
どうして水都になるとこんなに威圧感感じるんだよ!兄ちゃんはなんともないのにっ
水都と二人きり、という状況だけでも怯えてしまうが、ましてや今俺がいるのはこの間の数学の小テストのできが悪かったから個人補習のため。
とりあえず一通り教わって、渡されたプリントを解いて、水都が丸付けをしていたのだがどうやら終わったらしい。
正直、今が一番恐ろしい。
もしもプリントのできが悪かったら、水都に何をされるか!
どうして水都になるとこんなに変態なんだよっ!

内心ちょっとした逆ギレを起こしながら、水都の次の言葉を待つ。
俺としては、結構できたほうだと思ったんだけど…。

「…何を怯えているんだ?」
水都が笑いながら言った。
…危険だ。水都のこの顔はとても危険だ…!
頭の中でうるさいくらいに警鐘が鳴り響く。
いますぐ逃げ出したい。この場から去りたい。しかし少しでも動いたら終わりだ。即効つけ込まれるに決まっている。捕まって、『補習をしてやったのにその態度か?』とか言って俺のこと押し倒すんだ。
そんなことは、絶対に避けたい。

言い返すこともできずにただ固まっていたら、水都は尚も笑いながら言った。
「期待しているのか?」
誰が!
言い返したいのをぐっと堪える。我慢我慢。何かアクションを起こしてしまったら俺の負けだ。
水都に何をされることか!

そうは思うものの、いざ水都が俺の目の前に立ったときには我慢の限界。というかこのまま黙っていたら本当に何かされる!
身を捩りながら、叫んだ。
「水都…!」
「羽柴」
名前を呼ばれて、思わず竦んでしまう。このままじゃいけないって思うのに。
水都の手が俺に向かって伸ばされる。後ろに引こうとするけれどあいにくと壁が邪魔して下がれない。

「水都…!」
思わず目を瞑ってしまう。
ああもうどうして水都の前だと何も出来ないんだよ!
そんな自分が情けなくて仕方がない。自分の不甲斐なさに少し落ち込んでしまっていたところに、思いもよらない感触がした。
頭を撫でられる。
そして、思いもよらない声。
「なーんちって。ってか空すげぇじゃん。やっぱやれば出来るんだよ」
水都からは考えられない、楽しそうな声。
驚いて目をあければ、眼鏡を取ってネクタイも緩めて。
楽しそうに笑う、兄ちゃんがいた。
「兄ちゃん…?」
呆気にとられて、舌が上手く回らない。呆然としながら兄ちゃんを見れば、ニッと笑って兄ちゃんが答えた。
「おうよ。結構前から水都じゃなかったんだけどな」
なんて言いながら、嬉しそうに笑う。

「な、何だよ…!水都じゃないなら早く言えよ…!!」
何だよ、無駄に怯えちゃってたじゃないか。
水都のフリをしていた兄ちゃんにたいする悔しさと、兄ちゃんであったことへの安堵がこみ上げてきてなんとも言えない気分になる。
とりあえず、ここは兄ちゃんを怒ってもいいところだよな?そう思って文句を言おうとするけれど。
ふと、兄ちゃんが言った言葉を思い出す。

俺が凄い?やれば出来るって、何が?

俺が思っていることが顔に出たのだろうか。兄ちゃんは嬉しそうに笑って、プリントを差し出した。
それは先ほど俺が解いた、数学のプリントで。

「うそ…!」
え、ありえない!だってこの俺が、数学が大の苦手な俺がこんなに丸ばっかりなんて!
驚いてプリントを凝視していたら、兄ちゃんが言った。
「嘘じゃねぇよ。空だってやれば出来るんだよ。ほらもっと自信持て!」
なんて言うけれど。
確かに、今回のプリントの手ごたえはあった。というのもその前に水都が教えてくれて理解出来たからだ。
水都…兄ちゃんの説明はわかりやすくて、俺が理解するまで何度も詳しく説明してくれた。
兄ちゃんが教えてくれたから、今回のプリントが解けたのだろう。

俺が凄いのではない。兄ちゃんが凄いのだ。

「兄ちゃんが教えてくれたからだよ。有難う、兄ちゃん」
嬉しくて、笑顔でそう言った。

兄ちゃんのお陰でもやっぱり俺が数学をこんなに出来たということがとても嬉しくて、思わずプリントをまじまじと眺めてしまう。
プリントを見ながら堪えきれず小さく笑っていたら、声が聞こえた。
「あー…」
少し困ったような、兄ちゃんの呻き声。
その声に反応して俺が顔をあげると、口元を右手で覆って俯いていたのであろう、俺と同時に顔をあげた兄ちゃんと目が会う。

「兄ちゃん?どうしたんだよ?」
「あ?ああ、何でもないって!」
「ふーん?」
少し不審ではあったけれど、それよりもやはり俺としては目の前のプリントだ。

とりあえず帰ったら祭と藤守に自慢しに行くかぁ、なんて思いながらまたプリントを眺めた。






嬉しくて、プリントから目が離せない。









―――――――
嬉しくて声が出ないのは私の中では兄ちゃんの方だったり。
今まで空がときめいてた話ばっかりだったので今回は兄ちゃんのときめき話でした。(わかりにくい)
兄ちゃんにお礼を言う空の笑顔が眩しかったんですよ。(笑)