本日の練習メニューを書き終えた日誌を閉じ、小さく溜息をついた。
書くのに集中していたのだろう、気がつけば部室には自分一人だけになっていた。思っていたよりも時間が経っていたらしい。
帰ろう、帰って自主練習をしよう。
そう思い、荷物をまとめ、席を立った。
12月の夜は寒い。マフラーを首に巻き、ドアを開けた。
一気に変わる温度に、思わず小さく身体を振るわせた、その時。

「やっと出てきたー」
まさか人がいるとは露にも思わず、驚いて肩を震わせてしまう。
そしてすぐに声の人物を見て、思わず溜息をついてしまった。
「何してるんスか、菊丸先輩」
ドアのすぐ横にしゃがみ込んで、笑いながら手を振ってくる菊丸先輩に少し呆れてしまう。
こんな寒い中、一人で何をしているのだ。

「進路相談でさっきまで残ってたんだけど、部室の電気点いてるの見えたから海堂まだいるのかなーって思って」
だから待ってたにゃーなんて笑いながら立ち上がるけれど。

「……中に入ってくればいいじゃないですか」
「海堂部長の邪魔したくないしー」
わざとらしく部長、を強調して言う先輩に思わず眉を顰めてしまう。
「風邪ひくっスよ。受験なのに」
少しだけ嫌味っぽくきつい口調でそう言っても、返ってくるのはいつもの笑顔で。
「大丈夫大丈夫ー。海堂に逢えて俺今ほっかほかだから!」
「なんスかそれ」

溜息をつきつつ、早く帰ろうと歩き始めた。
そんな俺の横に、すぐにやってきて共に歩き始める先輩。
先輩の顔は赤くて、先輩の吐く息は白くて、見ているだけで寒い。
少しだけ先輩の姿を盗み見て、また小さく溜息をついた。

「部長の仕事どう?大変?」
「別に、なんともないっス」
「海堂部長、結構後輩に慕われてるしねー」
「……先輩こそ、受験勉強どうなんスか」
「まーぼちぼち?えへへー」
「…大丈夫なんスか?」
「まぁ大丈夫っしょ。大石と不二に勉強教えて貰ってるしー」

折角勉強をしているというのに、
「……こんな寒い中、わざわざ待ってなくても」
本当に、風邪をひいてしまってからでは、どうするというのだ。

俺の呟きは聞こえなかったのか、先輩は星を見上げながら小さく白い息を吐いた。
早く帰ろう。一刻も早く、暖かい室内に先輩を入れなければ。
「海堂、かーいどう!」
「…なんスか」
先輩の方を振り向けば、先輩が右手を差し出していた。

「手、繋いで帰ろう?」
「……は?」
何をふざけたことを言っているのだろうかこの人は。
もう熱でも出てしまったのだろうか。

「俺は別に寒くないけど、海堂が俺のこと心配してくれてるみたいだから」
「…いやだから意味わかんないっス」
「だから、」

いつもの無邪気な笑顔をとは少し違う。自惚れかもしれないが、多分、俺にしか向けない、顔。
少し意地悪そうに、そしてほんの少し妖艶な、笑顔。

「海堂の熱を、俺にちょーだい?」

「……っ」
一気に顔が火照るのが自分でも分かる。驚きと恥ずかしさで、上手く声が出ない。

先ほどの表情から雰囲気を変えて、いつものようにへへへーと笑いながら菊丸先輩は手差し伸べてくるけれど。
「海堂?」
「…っば、馬鹿じゃないんですか!」
「馬鹿じゃないもーん。本気だもーん」
恥ずかしくて、目を逸らした。居たたまれない。だがしかし先輩も引く気はないみたいで、真っ直ぐに俺を見つめながら手を差し伸べてくる。
「ね、海堂?」
「…っ!少しの、間、だけッスから!」

恐る恐る左手をポケットから出して、先輩の方に伸ばしたら、力強く握られた。
ああ、もう。
余りの力強さにびっくりしたのと、もの凄く恥ずかしいのとで、視線を彷徨わせる。

「明日も一緒に帰ろーね!」
「…待つなら部室の中に入ってきてください」

吐く息は白くて、頬に当たる空気は冷たいけれど、先輩に握られている左手は暖かくて。

へへ、と小さく先輩が笑うので、先輩の方に視線を向ければ、凄く嬉しそうな笑顔を向けられた。
「暖かいね」
先輩こそ、思わずそう呟いた。













『ある寒い日のこと』